3. 映画を見て
 


 
1)ドクターTと女たち

ドクターT(リチャード・ギア)は幸せな結婚生活を送る産婦人科医。しかし診療所の待合室は、何とかして彼に近づきたい患者たちの嫉妬と競争心が渦巻いている。妻は夫の余りのもてように(? この部分は見ていなかったので想像するしかないが)ノイローゼが高じて精神科に入院してしまう。ドクターTは恋しい妻を病院に訪ねるが、妻は彼が夫であることすらわからない。ある日、ドクターTはゴルフ場で、自分の身の回りに群がる女性たちとは全く異なる、自立し、自信に溢れた美しい女性と知り合い、非常に惹かれて彼女の誘いに乗り、一夜を共にする。そしてそれ以来、彼女が忘れられなくなる。

結婚を間近に控えて診療室を訪れた娘に、突然レズビアンであることを打ち明けられ、ドクターTはショックを受ける。患者たちは競争心の余り、待合室で大騒ぎを起こす。看護婦や事務局員までが彼に迫ろうとする。その上結婚式の当日、娘は本当の恋人である花嫁の付添いと逃げてしまう。まわりの女たちにも人生にも絶望した彼は、大雨の中、新郎新婦が乗るはずだったオープンカーでびしょびしょになりながら、ゴルフ場で知り合った彼女の元に走る。もう信じられるのは彼女だけだ。突然の来訪に驚く彼女を抱きしめ、ドクターTは言う。「もうこんなところにいたくない! 君とどこかへ行って、二人だけで暮らしたい! どうか一緒に来てくれ! そばにいてくれるだけでいい! 働かなくたっていい!」 彼女は言う。「そんなこと、できないわ。私にだって人生計画があるのよ!」 最後の望みも絶たれた彼は、豪雨の中を車で走り回り、竜巻に巻き込まれてしまう。

 気がつくとドクターTは砂漠の中の小さな野原に倒れていた。子どもたちがやってきて、彼を起こし、母親たちと共に、数軒ある小屋の一つへと入っていく。するとそこではちょうどお産の真っ最中。それを見た彼はすぐに手を洗い、産婦に声をかける。「もうすぐだ、だいじょうぶだ!そう、その意気だ!」こうして、新しい生命を取り上げたドクターTは初めて人生の喜びを感じる。

 玉の輿に乗りたくて(しかも猛烈にいい男!)自分に群がる女たちに心底嫌気が差して、出向いた恋人に言う言葉がふるっている。自分がそういう考え方をしているから、生活の安定と虚栄を満足させようとする女たちが群がるのだ、ということが彼にはまるでわかっていないのだ。群がる女たちが待っているのとまさに同じ言葉を、新しい女である彼女に向かって言って、一緒に来てもらえると思っている。自分が真に惹かれるような女性を射止めるには、相手を一つの個性として認めなければならないことを、そうすればこそ、素晴らしいパートナーシップの可能性も開けるのだ、ということがまるでわかっていないのが滑稽。彼は砂漠の民の中で尽くしてくれる女性を探して、暮らしていくだろうか、それともまた群がる女たちの中へ戻っていくのだろうか。久しぶりに見た風刺の利いた映画。

 はたしてこの映画を見る男性は、ここに誇張して描かれている女たちの行動パターンと男たちの「男は○○でなければいけない」という強迫的な考え方とが、セットになっていることに気づくだろうか? そうでなければいけないと言ったのは、一体誰 だったっけ?   (2004.3.28)

 


 4.私の周りをウィーンが回る
       

 1994年の暮れ、私は18年暮らしたウィーンを後に帰国した。病気を抱えた離婚だったので、大分進んでいたウィーン大学での勉学も、残念なことに諦めざるを得なかったが、それでもウィーンにいたくて、翻訳の仕事を続けているうち、無理がたたって働けなくなってしまったのだ。こんな状態でここにしがみついていても仕方がない、思い切って帰国し、身体を休めてもう一度やり直そう、と決心しての帰国だった。

 帰国する以上、ウィーンでは不可能だった翻訳出版を実現させたいと思った。児童文学に関心があったので、帰国するとすぐ児童文学関係の編集者、作家、イラストレーターなどの集まるサークルに顔を出して、人脈作りに励んだ。2年目に入り、ついにずっと温めてきたマルティン・アウアーの少年詩集が、ある編集者の目に留まり、出版が決まった! ところが編集の段階に入ってまもなく編集長の交代があり、新編集長の、少年詩は売れない、という一言で、あっけなく出版中止となってしまった。

 私は1996年から東京渋谷の欧日協会ドイツ語ゼミナール講師として働いていたが、1998年春、主治医から「血小板が1万5千しかない。これ以上減ると、輸血に頼って生きなければならなくなる。そうなったら、3年でおしまいだよ」と言われた。帰国以来、血液検査の結果はじわじわと悪くなってはいたが、ここまでとは! そこで学校を夏学期いっぱい、3ヶ月間休ませてもらい、そのうちの2ヶ月間を昔いつも休暇を過ごした、ウィーンから車で2時間ほどのちいさな山村の宿で保養することにした。

 そうだ、あの本を訳そう!と思った。私をずっと支えて来てくれたあの本だ。離婚後の敗残者意識からどう自分を立て直し、内なる声に従った新しい人生を築いて行くかを著者自身と200人以上の面接者の体験から描いている。日本では当時バツイチという言葉が一般的になるほどに離婚が増えていた。私にこれほど勇気を与えてくれたこの本を、同じ状況で一人だと感じている人たちにどうしても手渡したい!と思った。とにかく訳すことだ。山の宿で2ヶ月間、毎日ただただ訳し続けた。丸1冊の本を訳したのは初めてだった。翻訳の質も自分ではしかとはわからない。金融関係の出版社を経営している大学時代の親しい友人に恐る恐る「お願い、正直に聞かせてね」と批評を頼んだ。その友人がある出版記念会で偶然講談社の編集者と知り合い、私の本の話をしてくれた。すると「僕は担当が違うけれど、担当の者に翻訳原稿をお渡ししましょう」と言ってくれ、それを読んだ担当者が、面白い、出しましょう、と言ってくれたのだ!どう考えても見えない大きな力が応援してくれたとしか思えなかった。ただただ感謝でいっぱいだった。

 オーストリアの田舎での2ヶ月の保養で、心の解放感を得、体調を回復した私は、輸血で生きるはめにはならないで済んだ。それ以来、何としてでも毎夏日本脱出を図る、と決心、約1ヶ月の ウィーンと山村での保養のお蔭で、残りのストレスに満ちた日本の都会生活の中でも何とか体調を保っていくことができた。

 ウィーンに行くと必ずヴィルヘルミーネの丘を訪れた。ここから眺めるウィーンの街が一番好きだから。2000年の夏、またこの丘にやって来た。いつものようにそこからウィーンの街を眺めた時、どういうわけか突然「ここに来たい!もう我慢できない!どうしてもウィーンに来たい!」という嵐のような感情に圧倒されてしまった。この時から私は具体的にウィーン再移住の準備を始めたのだった。

 そして2003年の初め、私はついにウィーンに戻って来た。住民届け、口座開設から家具・備品の購入、仕事探し。2ヵ月後、やっと引越しパーティーを開くことができた。こうして友人、知人たちの応援を受け、私の新生活は始まった。日本にいた間、ずっと手放せなかった入眠剤もいつの間にかいらなくなった。特別の治療はしていないのに、血液像も少しずつよくなって行った。また元夫とは再移住の頃からゆっくりと注意深く近づき合って来たが、ここ12年ずっとよく分かり合えるようになり、多くの時間を共にするようになった。

 私はもうウィーンを離れない。第二の故郷ではなくて、第一の故郷になったウィーンだから。

 (Reley Essay ドナウの畔から、第8回、日本原子力学会誌、Vol.53 , No.1
[ 2011],68
ページ、
 2010725日記)

 
  

                      

 

 

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