ミラ・ローベ・ゼミナール 2004年、ウィーン大学オーストリア児童文学研究所主催のミラ・ローベ・ゼミナールに参加した。私はちょうどミラ・ローベの『にぎやか色のちび』と『赤いロッコと緑のギル』を翻訳したところだった。ある日のゼミナールの休憩時間、私は隣りにいた参加者の男性に、『にぎやか色のちび』翻訳の際、「私」という概念がドイツ語圏と日本とでは全く異なって理解されるため、とても苦労したという話をした。そうしたら、彼が「それは興味深い。このゼミナールが終わったら、その成果をミラ・ローベについての本としてまとめます。そこにぜひその話を書きませんか?」と言うので、びっくり仰天してしまった。参加者の一人と思っていたその男性は、ゼミナールの主催者、オーストリア児童文学研究所代表のサイベルト先生だったのだ! この大幸運のお蔭で、私などの寄稿が「第7巻 ミラ・ローベ 」に掲載されるという信じられない事態が起こったというわけ。下の『等価値的翻訳とは何か?』は、その寄稿を自分で日本語に訳し直したものである。なお、「日本の家族共同体と日本語の構造」の最初に、日本語での会話との違いを理解して頂くため、ドイツ語の親子の会話の特徴を簡略に書き足した。
等価値的翻訳とは何か?−『にぎやか色のちび』を例にとっての一考察 ウィーン大学の翻訳学の講義で、いつもうるさく言われたのは、等価値的翻訳をすることが最も重要だということだった。等価値的翻訳とは、一体、どういうものを指すのだろうか? 講義で聞いた定義では、「訳された言語の読者が、原語の読者が読んだ時に感じるのと、同じ印象を持つ翻訳」のことだと言う。しかし、もしこの二つの文化が根本的に異なったものであり、それでもその異文化をもう一つの文化に伝えようとする時、それは一体どのようにして可能なのだろうか? 翻訳とは、一つの発想法、思考法をもう一つの発想法、思考法に移し変えることでもある。ただその時、原語の発想法を訳す言語の発想法に完璧に移し変えてしまったら、原語の発想法、つまり異文化は、全く伝えられなくなってしまう。それでは両文化の違いが認識できないからである。だからと言って、原語の発想法を全くそのまま残してしまったら、訳された言語の読者は、内容が理解できないか、あるいは誤解に導かれてしまう危険がある。従って原語の発想法を、ある程度訳す言語の発想法に移し変える必要が生まれるが、それは翻訳言語の読者が、発想の違い、つまり文化の違いに気づき、しかもその違いを面白い、興味深いと思えるところまで移し変える、あるいはそこまでで止めるのが望ましいのではないか、と思って来た。 ところがこの仮説は、ミラ・ローベの“Das kleine Ich bin ich(直訳:小さな私は私)”の翻訳過程で立ち現れてきた新しい疑問の前に、全く無意味なものとなってしまった。もし、ある本の中心概念そのものが、両文化の間で、全く異なって理解されるとしたら、作者が本来伝えたいと思っているメッセージを、翻訳言語の中で伝えることは大体可能なのだろうか? 発想の移し変えはどこまで許されるのだろうか? 一体翻訳の一番大切な課題、言い換えれば、翻訳の最終的な目標は何なのだろうか? にぎやか色のちびの悟りのシーン “Das kleine Ich bin ich(直訳:小さな私は私)”の翻訳が難しいものになるだろうということは最初からわかっていた。なぜなら「私」という概念が、この本の中心的な意味をなしているからだ。日本社会の中では伝統的に、集団のルールに自分を合わせ、自分自身の利害は抑えることが要求される。この「集団」は家族であったり、また会社や社会であったりする。近年、失業者や中高年の自殺率が高いことや、学校でのいじめ、家庭内暴力などの社会問題の陰にこうした価値観が大きな圧力として働いているのではないかと言われるようになった。ここでは社会のルールに適合する者だけが評価され、それができない者は拒絶され、軽蔑される。 従って、悟りのシーンや、「私」という概念が大きな意味を持つシーンは、できる限り日本語的な発想に移し変えた。その上で翻訳テキストを原書に貼り付け、大阪の家庭文庫 註1).の主宰者と語り活動をしている人とに協力をお願いして、子どもたちに読んでもらった。そしてわかったことは、5,6歳の子どもたちには、なぜ自分が存在するというだけで、自分が自分であってよいのかが、理解できないということだった。「ああ、やっぱり!」と思った。 この事実によって、日本の子どもたちは「私」という概念をドイツ語圏の子どもたちとは全く異なって認識しているため、このシーンを理解してもらうためには、テキストを日本語発想に移し変えるだけでは充分ではない、ということが明らかになった。 日本の家族共同体と日本語の構造 ドイツ語では親子は全く同じ言葉で話す。子どもが幼い場合、語彙が少ないと言う違いはあっても、親も子も、自分のことは“ich(私、ぼく)”と言い、相手のことは親でも子でも親称の二人称“du(きみ、あなた)で呼ぶ。従って物心つく頃から「自分」を一個の存在として認識している。ところが日本語では、親と子どもは全く異なった言葉を話す。就学前の子どもとその親は、「私」という言葉も「きみ、あなた」という言葉も一切使用せずに話すのだ。親は子どもと話す時、自分を子どもに対する自分の役割に即して「パパ、ママ」あるいは「おとうさん、おかあさん」と呼ぶ。子どもの方はたいていの場合、自分を自分のニックネームで、例えば、「まきちゃんがね」というように表現する。ということは、この家族共同体の中では「私」という概念は消滅し、意識されることがない。つまり子どもは就学するまで、「私」という概念がほとんど現れない環境で育つわけである。そう考えれば、子どもたちが「私」という概念を理解できなかったこともわかる。あまりにも抽象的過ぎたのだ。 大人にとっても、自分が存在するだけでは、自分でいてよいという理由としては足りないようだった。何人かの大人からも、この本の悟りのシーンはよく理解できないという意見を頂いた。日本語という言語は、自分が相手にとって何者であるかがわかって、初めて正確に話すことができるという構造を持っている。そのため、ドイツ語の「私」に当たる表現が非常にたくさんある。「私」という概念は相手との関係においてのみ、認識されるのだ。 悟りのシーンの変更 さて、ちびのメッセージは、作者の本来のメッセージを伝えることができるように、表現を変える必要が出て来た。もし、「私」が存在するだけでは、私でいてよいという理由として不十分なのであれば、では、日本人は一体どういう時に、私でいてよいと思えるのだろうか。生物が存在するという事実には、本来すでに生きる意志が含まれている。誰でも、自分の生きる意志を、願いや憧れとして持っている。もし誰かが心底からある者になりたい、あるいは何かをしたい、と願っているなら、それを禁止することは誰にもできないはずだ。けれどもそのことを日本人はほとんど意識していない。というより、自分自身の心の底からの願いを自分で抑圧してしまい、意識から追い出してしまった、と言った方がよいだろう。ようやく今、それを思い出して来たのだ。 こうして悟りのシーンは、日本語では、ちびの思考のプロセス、つまり自らの存在の認識から、自分は自分でいてよいのだ、という悟りまでを、言わば声に出して考えるシーンにすることにした。ちびの心からの願いは「ここにいて、のはらを 走りたい!」という言葉で象徴させた。 悟りのシーンは、原語テキストの「たしかに わたしは 存在している。わたしは わたしなんだ!」の部分を、「でも わたしは ここに 立ってる。ちゃんと ここに いる。ここにいて のはらを 走りたい!…そうか それなら いいんだ! のはらを 走って いいんだ! わたしは わたしで いいんだ!」という、大声で考えるシーンに変えた。活字は、自覚が進んでいくプロセスに合わせて、次第に大きくしていった。 仲間を探しても見つからないことは、日本の子どもたちには、自分の属する集団を見つけられなかった悲しみとしてではなく、周囲から受け入れられず、拒絶される悲しみと絶望として感じられる。従って、翻訳の際は、受け入れられない悲しさに重点を置いた。そうでないと、日本の子どもたちはちびの悲しみを本当に理解することはできないからだ。 また、ちびが動物たちに向かって言う繰り返しの言葉も、より具体的に、わかりやすくするため、言い換えた。 わたし、あなたたちに にて いない? 最後の行は、「わたしの なかまを さがしているの」とした。 この翻訳への反応はまだ非常に少ない。本書は2004年5月10日に発行されたが、製本の不備からすぐに販売が中止されたからだ。新製本の納入は6月初めと聞いている。それでも早速に著名な翻訳家からとても嬉しいコメントを頂いた。褒めて下さっているので恥ずかしいけれども、あっ、思いが伝わった!と思えたコメントだったので、ここにご紹介する。 すばらしい絵本!ありがとうございました。 ミラ・ローベの日本での受容 日本で現在までに出版されたローベ作品は次の各書であるが、そのうち現在市販されているのは、星印をつけた5書である。括弧の中の数字は、原書の発行年。『赤いロッコと緑のギル』は、拙訳により、2004年7月に出版の予定である。 1.りんごの木の上のおばあさん(1965)、1969、学習研究社、東京 2.ぐうたら王とちょこまか王女(1962)、1976、学習研究社、東京 3.ゆかいな子ぐまポン(1957)、1977、学習研究社、東京 4.子ぐまポンの大ぼうけん(1968)、1977、学習研究社、東京 5.スースーをどうしよう?(1960)、1978、学習研究社、東京 6.ぐるぐるっと町(1970)、1978、学習研究社、東京 7.そらいろのカンガルー(1968)、学習研究社、東京 8.ハネスとブンパン(1961)、1979、学習研究社、東京 9.ぞうのエリ(1967)、1979、学習研究社、東京 10.タップス(1958)、1980、学習研究社、東京 11.みんなおいで(1975)、1980、好学社、東京 12.インゴとドラゴ(1975)、1980、学習研究社、東京 13.原題不明、1984、学習研究社、東京 14.わんぱく自動車フリッツ(1956)、1982、文研出版、東京 15.あるきだしたゆきだるま(1980)、1984、偕成社、東京* 16.原題不明、1984、学習研究社、東京 17.りんごの木(1980)、1991、Daughters
of St.Paul、東京* 18.クルリン(1964)、1999、徳間書店、東京* 19.なまけものの王さまとかしこい王女のお話(1962)、2001、徳間書店、東京* 20.にぎやか色のちび(1972)、2004、エルアイユー社、東京* (5,8,9,10,
12については、現在、日本語タイトル名を調べることができないため、実際に出版されたタイトル名とは異なる場合がある) <註> 2)心理的、社会的理由から学校に行けなくなり、部屋に閉じこもってしまう子どもたちのための私設学校。閉じこもりの期間は数年に及ぶこともある。 (オーストリア児童文学研究−オーストリア児童文学研究所発行書 第7巻、207頁〜211頁、『ミラ・ローベ…子どもたちの世界で』発行人:エルンスト・サイベルト、ハイディ・レクセ、2005年ウィーン、発行所 Verlag
Edition Praesens)
最初の部分で、翻訳に関する私の仮説は、『にぎやか色のちび』を翻訳する過程で現れてきた新しい疑問によって、全く無意味なものになってしまった、と書いたが、結局のところ、私は等価値的翻訳との関係の中で、何に向かって努力したのか、ここで考えてみたいと思う。翻訳の最終的な目標は、作者のメッセージを本来の形で伝えること、そのメッセージを翻訳言語の中でも、原語読者が感じ取ったように伝えるということではないだろうか。ただその時、中心概念の理解が両文化で余りにも異なる場合は、翻訳言語読者も、原語読者が感じ取ったように感じられるようにするため、本質的なところで一致するところまで、翻訳言語の発想にさらに移し変える、ということになるのではないか。だから、やはり私は等価値的翻訳を実現するために努力したことになる。 等価値にするために、ここまで原文を変えるという体験は初めてだった。けれども、ここまで中心概念の理解が異なる場合には、本質的なところで一致できるよう、原文を変える必要もあることが理解できた。『にぎやか色のちび』の翻訳のお蔭で、等価値的翻訳への理解をさらに一段深めることが出来たと思う。 ひとつ付け加えれば、本書を訳す過程で、なぜ『にぎやか色のちび』が、もしローベの作品から一つを選ぶとしたら、本書、というくらいに今でも愛される作品で、12ヶ国語に訳されてもいるのに、1972年の初版から今まで日本語に訳されていなかった理由がわかった。多分、「私は私でいていい」なんて、わがままを助長する、社会の期待に添っていないという判断から出されなかったのだと思う。けれども自殺、いじめ、家庭内暴力などの問題の背景として、願望を抑えなければいけないという圧力が大きくクローズアップされて来た今こそ、自分の心からの願いに忠実に生きること、心の底からの願いを実現すべく自分を成長させていくこと、またそれを大人たちが支援していくことの大切さが理解されるべきなのではないだろうか。大人たちは自分自身に関してもその勇気を持たなければならない。 本書の翻訳のあと、『にぎやか色のちび』の出版を機会に、私たちは『ちびとなかまたち』という子どもたちも参加できるHPを作った。その中で、家庭文庫の主宰者おひさまさんが、『にぎやか色のちび』誕生の経緯とどのようにチームワークを進めて行ったかについて、小学校4年生以上なら誰でも分かる言葉で、しかも今でも当時の興奮がありありと目に浮かぶ素晴らしい筆致で『ちびたんじょう物語』をまとめてくれたので、ぜひ読んで下さい! → http://nigiyakatibi.yu-yake.com/tanjyou.htm (2013.1.26)
|
||