ルートヴィヒ・ベヒシュタイン(1801〜1860)
伊東明美・訳 2000年9月15日 第1刷発行
*森の中では油断も隙も命取りの話・*・悪魔が隣りですましてる話・*・妖かしは見ている話・*・家庭内は危険がいっぱいの話・*・負けてない人々の話・*・癒えない悲しみの話* 計三十話を収録
昨今の童話ブームで、ようやく童話は大人にだって面白いと認められてきたようだ。童話は子供向けの夢物語なんかではなくて、非日常の世界で人生と人間の本質を見せてくれる民衆の智恵の結晶だ。そこでは善も悪も、欲望も純粋さも、残酷さも優しさも全てが受け入れられ、場を与えられている。 ここにお贈りする「悪い子のための怖くて不思議な童話」は、ルートヴィヒ・ベヒシュタイン(1801〜1860)の童話伝説集から三十話を選んだものである。 しかし時の研究者に非難されようとも、心に訴えるものは生き延びる。ベヒシュタインは個々の童話の復刻版が、グリムより多く出た唯一の作家であり、また今日でもグリムと並んで愛され、親しまれている。ドイツでは1960年代半ばに再発見され、ようやく学術的にも注目されるようになって来た。 * * * グリム兄弟は豊かな官吏の家に生れたが、兄のヤーコプが11歳のときに父親が亡くなり、貧しい生活を余儀なくされた。 一方、ベヒシュタインは私生児として生れ、貧困ゆえ叔父夫婦に預けられて育ち、旅と自然に慰めを見出しながら童話伝説を収集した。 ベヒシュタインは、恨みも妬みも打算も人間誰にでも潜むものとして認める。姑の嫁いじめ、家庭内暴力、ごまをすりつつ陰で私利をむさぼる貴族・役人、脅されてやむを得ず悪行に加担するおかみ、好きな娘と結婚するために親友を裏切る若者・・・ これも人間の本性だ。 現代にあるものは中世にだって何でもあり。グリムとは一味も二味も違うベヒシュタインの持ち味を楽しみつつ、どんな世の中でもたくましく生きる人間のエネルギーを汲み取って、日々の活力としていただければ幸いである。(「訳者まえがき」より) ル−トヴィヒ・ベヒシュタイン(Ludwig
Bechstein)は、今から二百年前の1801年11月24日、使丁頭の娘、ヨハンナ・ドロテーア・ベヒシュタインの息子として、中部ドイツ、チューリンゲン地方のワイマールに生まれた。父親はフランス人亡命者ルイ・ユベール・デュポントローであったが、息子が生まれる直前に姿を消した。 ベヒシュタインは、定収入がなく貧しい母のもとで不幸な子ども時代を送り、九歳の時、林業専門学校長の叔父ヨハン・マテウス・ベヒシュタイン夫妻に里子として引き取られた。しかし叔父夫妻に感謝しつつも自分の家と感じることはできず、林業専門学校にも興味が持てずに、野山を歩き回り、ロマン主義文学を読みふけった。1818年には学校を中退、叔父の家を出て薬剤師見習いとなり、仕事のかたわら創作活動を始めた。自然と郷土を愛し、暇を見ては放浪の旅を続け、チューリンゲン地方を巡り歩いた。 1823年には四話からなる『チューリンゲンの民話』を出版。1828年の『ソネットの花環』で一躍有名になり、その才能をザクセン=マイニンゲンのベルンハルト公爵に認められて奨学金を得、1829年から1831年までライプチヒおよびミュンヘン大学で哲学、歴史、文学、芸術を学んだ。博士号取得のための学費は旅費にしてしまい、南ドイツ、オーストリアを歩き回った。 1831年には公爵の力添えでマイニンゲンの図書館司書となり、翌年にはヘンネベルク古代研究協会を創立、民俗文化の保護・促進運動を始めた。1840年には宮廷顧問官、44年にはヘンネベルク文書館総保管人と出世し、創作活動も旺盛で伝説の収集出版、中世に題材を取った叙事詩・物語詩・小説等の他、歴史学や文芸学、民俗学上の著作もあって関心は非常に多岐にわたり、作家・知識人として高く評価されていた。 1845年、ベヒシュタインは大衆的な童話集を出したいという出版人ゲオルク・ヴィーガントの提案に応じ、『ドイツ童話集』(原題『ドイツの童話の本』)を出版する。童話集はたちまち人気を得て次々と版を重ね、発行部数は発売後七年間で七万部を数えた。そこで1853年の第十二版は『ルートヴィヒ・ベヒシュタイン童話集』とタイトルを変え、174枚の挿絵つきで出版されたが、これがまた一大ヒットとなった。全巻通しての挿絵は出版史上初めての試みであった。 1812年にグリム童話の初版が出て以来グリムの業績が評価され、童話への要求が非常に高まっていた時期であったこと、多数の挿絵つきでありながらごく手頃な価格であったこと、さらにルートヴィヒ・リヒターの挿絵が素晴らしく、童話との相乗効果をもたらしたことなど、好条件が重なった結果であった。これらの挿絵は後にグリム童話集の挿絵としても使われるようになった。1856年には全く別の話を収めた『新ドイツ童話集』(原題『新しいドイツの童話の本』)を出版、こちらもたちまち評判となった。両童話集とも、豪華版として、挿絵を減らした大衆版として、また選集として、あるいは一話だけでと、様々な形で刊行され続けていった。1896年には『ドイツ童話集』の第45版が、1922年には『新ドイツ童話集』の第105版が刊行されている。 ベヒシュタインは二度結婚している。最初の妻は息子を生む時に亡くなり、二度目の妻との間には五人の子どもを授かった。有名になってから建てた家の借金に一生苦しみ、ことあるごとに友人に愚痴をこぼすような一面があったが、同時に郷土の文化保存に尽くす気さくな作家・知識人として人々に愛され、尊敬された。1842年には人道と友愛実現のための世界的秘密組織フリーメイソンに入っている。 ベヒシュタインは1860年5月14日、肝臓病によりマイニンゲンで亡くなったが、非常に多作で、500以上の著作を遺した。しかし当時は高く評価された著作も時代とともに意味を失い、現在では童話伝説収集作家としてのみその名を知られ、愛されている。 伝承文学の分野では、生涯に約150の童話、2300の民話を収集、両童話集のほか、『チューリンゲン地方の伝説の宝と伝説圏』(1835〜1838)、『オーストリア帝国の民話・童話・伝説』(1840)、『フランケン地方の伝説』(1842)、『ドイツ伝説集』(1853)、『チューリンゲン伝説集』(1857)を出版するなど、大きな業績を残した。 (「訳者あとがき」より) <最初の仕事> 体調を崩し、日本でやり直そうと決心して帰国した時、ウィーンでは不可能だった翻訳出版を実現させたいと思った。とにかく20年近くいなかった所へ突然ぽんと帰ってきたのだ。キャリアはゼロ。人脈もほとんどないに等しい。最低でも五年は覚悟しなければ。 制作の話し合いが始まった。ある時電話で編集担当者が「面白いドイツの童話を知りませんか?」と言う。そこでベヒシュタイン童話集を紹介した。それが一ヶ月ほどで出版に決まり、結局私の初翻訳出版として世に出ることになったのだ。童話への関心が高まっていたこと、ベヒシュタインがグリムとは全く異なったタイプの童話収集作家であったことが大きく幸いしたと思う。
メルヒェンの文体としては一般的に「ですます体」が定着している。私はあの「ですます体」の中に、非日常が日常となるメルヒェン世界の暗黙の了解が組み込まれている、と思って来た。それゆえ「ですます体」で訳した。 けれども「だった」と「であった」、「だ」と「なのだ」、たった2文字の違いがどれほどに異なった世界を表現していることか! 当然ながら語尾だけでなく、全体のリズムにあわせて文中の訳語や言い回しも変えなければならない。よりベヒシュタインの世界に近い、新しいリズムを持った翻訳。今思えばこれは新しいメルヒェン世界の構築というより、私自身のメルヒェン翻訳観との格闘だったのだ。信仰のようになっていた「ですます体」に私自身が捕われていただけだったのだ。 初翻訳出版の実感は発売日にわあ〜っとではなく、最後の仕上げ、裏表紙や帯の文決定のための頻繁なやり取りの中で、じわじわと湧き上がってきた。
Home | ごあいさつ
|
||