ルートヴィヒ・ベヒシュタイン(18011860

 「『悪い子』のための怖くて不思議な童話集」

   1.
どんな童話集なの?
   2.ベヒシュタインてどんな人?
    3.「『悪い子』のための怖くて不思議な童話集」ができるまで

 
    
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1. 「『悪い子』のための怖くて不思議な童話集」   

      伊東明美・訳

   2000年9月15日 第1刷発行

           
   講談社
     定価:本体1500(税別)

                                                                     

*森の中では油断も隙も命取りの話・*・悪魔が隣りですましてる話・*・妖かしは見ている話・*・家庭内は危険がいっぱいの話・*・負けてない人々の話・*・癒えない悲しみの話*   計三十話を収録

 

 

<どんな童話集なの?>
  

 昨今の童話ブームで、ようやく童話は大人にだって面白いと認められてきたようだ。童話は子供向けの夢物語なんかではなくて、非日常の世界で人生と人間の本質を見せてくれる民衆の智恵の結晶だ。そこでは善も悪も、欲望も純粋さも、残酷さも優しさも全てが受け入れられ、場を与えられている。

 ここにお贈りする「悪い子のための怖くて不思議な童話」は、ルートヴィヒ・ベヒシュタイン(1801〜1860)の童話伝説集から三十話を選んだものである。
 ベヒシュタインはグリム兄弟と同時代の童話伝説収集作家で、十九世紀後半から二十世紀初めまではグリムより売れていた人気作家であった。
 しかし大衆作家を目指した彼の童話は、非常に親しまれていたにもかかわらず、研究者たちからは常にグリムと比べられ、とりわけ「教育的でない」という理由によって、非難され無視され続けた。
 そのため日本でもベヒシュタインの紹介は非常に遅れ、植田敏郎が1952年に初めて「王冠のある蛇」他数編を翻訳紹介するまで、一世紀も待たねばならなかった。その後も単発的に数編あるいは個々の作品が紹介されては来たが、三十篇が一度に紹介されるのは今回が初めてである。

しかし時の研究者に非難されようとも、心に訴えるものは生き延びる。ベヒシュタインは個々の童話の復刻版が、グリムより多く出た唯一の作家であり、また今日でもグリムと並んで愛され、親しまれている。ドイツでは1960年代半ばに再発見され、ようやく学術的にも注目されるようになって来た。

           *  *  *

グリム兄弟は豊かな官吏の家に生れたが、兄のヤーコプが11歳のときに父親が亡くなり、貧しい生活を余儀なくされた。
 しかし貧しくとも引き続き愛情深い家庭の中で育ち、苦労をしながら立派な学者となって、童話を伝承文学の一分野として学問的に確立した。またドイツ民族の歴史を振り返り、再評価しようという当時の大きな潮流の中で、ドイツ文学・語学という研究分野を確立したのも彼らの功績である。
 グリム童話は改訂を通じて、大衆を「啓蒙」するという時代の要請に応えていき、結果的に当時の新興市民階級の道徳観を代表するものとなった。
 「よい子」を育てるグリム童話は、その後現代に至るまで社会道徳の形成に大きな影響を与えている。白馬に乗った王子様が迎えに来て幸せにしてくれるのをただ待つ女性の依存心理はシンデレラ・コンプレックスと呼ばれるが、なぜそうなったのかを考えるとき、幼いころ夢中になって読んだ童話が人格形成にどれほど大きな影響を及ぼしていることかと、今さらながらに驚かされる。竜を退治し、お姫様を助ける、凛々しく、強く、勇気のある王子様も理想の男の子像だ。
 

一方、ベヒシュタインは私生児として生れ、貧困ゆえ叔父夫婦に預けられて育ち、旅と自然に慰めを見出しながら童話伝説を収集した。
 父を知らない自分の出生を非常な恥とし、また母に捨てられたという悲痛な心の傷を引きずりながら、何とかしてそれを克服しようと格闘し続けた。
 しかしベヒシュタインもまた実は、別の視点から「よい子」を育てる童話を書こうとしたのだ。
 生い立ちに引け目を感じつつ、辛い思いに耐え続けなければならなかった体験から、また自分のような子供を決して作ってはならないと願う気持ちから、人間性をはぐくむ童話、道徳性を養う童話を書こうとした。そのためことわざや格言をよく使ったが、それがまた研究者からは道徳性を強調して民間伝承を恣意的に改作していると、非難されることとなった。
 ベヒシュタインはしかし、学問的業績を打ち立てるために童話伝説を収集作品化したのではなかった。郷土に伝わる民衆の宝を、ただ民衆に喜ばれ愛される作品として提供し、その中で自分の目指す生き方を伝えようとしていたのだ。

 そうなれば文体も当然ながらグリムとはかなり違って来る。作品を読んでみて、まっ先に目に止まるのはユーモアや風刺、社会批判性、そして庶民の側に立った、たくましい正義感であろう。
 強者を策略によって打ち負かすしたたかな子、おとなしく待っていないで自分から出て行く、行動する子。マニュアルには頼れない。各自が自分の運命を正面から見据えるしかないのだ。ここではグリムでは決して見られない「悪い子」たちが輝き、水を得た魚のように生き生きと行動している。

 ベヒシュタインは、恨みも妬みも打算も人間誰にでも潜むものとして認める。姑の嫁いじめ、家庭内暴力、ごまをすりつつ陰で私利をむさぼる貴族・役人、脅されてやむを得ず悪行に加担するおかみ、好きな娘と結婚するために親友を裏切る若者・・・ これも人間の本性だ。
 けれども彼は、魂の内なる声に忠実に生きようとする者を応援する。弱い者も負けっぱなしではいない。傭兵は確固たる信念によって悪魔を味方につけ、若い羊飼いは策略によって権力をギャフンと言わせる。娘や妻たちはただ待っていないで行動する。登場人物が個性的で生き生きとしている。
 人間の弱みにもここでは温かい視線が向けられる。不景気ゆえについ甘い言葉に乗って悪魔を雇ってしまう正直な仕立て屋、絶対的な力を持ちながらへまをして魂を取りそこなう悪魔、誠実な妻よりも周囲の言葉を信じてしまう夫たち。だが結果は自分で引き受けねばならないのだ。人間の普遍的な真理と倫理がここに浮き上がってくる。

 現代にあるものは中世にだって何でもあり。グリムとは一味も二味も違うベヒシュタインの持ち味を楽しみつつ、どんな世の中でもたくましく生きる人間のエネルギーを汲み取って、日々の活力としていただければ幸いである。(「訳者まえがき」より)

 

  

2.<ベヒシュタインてどんな人?>

ル−トヴィヒ・ベヒシュタイン(Ludwig Bechstein)は、今から二百年前の1801年11月24日、使丁頭の娘、ヨハンナ・ドロテーア・ベヒシュタインの息子として、中部ドイツ、チューリンゲン地方のワイマールに生まれた。父親はフランス人亡命者ルイ・ユベール・デュポントローであったが、息子が生まれる直前に姿を消した。

 ベヒシュタインは、定収入がなく貧しい母のもとで不幸な子ども時代を送り、九歳の時、林業専門学校長の叔父ヨハン・マテウス・ベヒシュタイン夫妻に里子として引き取られた。しかし叔父夫妻に感謝しつつも自分の家と感じることはできず、林業専門学校にも興味が持てずに、野山を歩き回り、ロマン主義文学を読みふけった。1818年には学校を中退、叔父の家を出て薬剤師見習いとなり、仕事のかたわら創作活動を始めた。自然と郷土を愛し、暇を見ては放浪の旅を続け、チューリンゲン地方を巡り歩いた。

1823年には四話からなる『チューリンゲンの民話』を出版。1828年の『ソネットの花環』で一躍有名になり、その才能をザクセン=マイニンゲンのベルンハルト公爵に認められて奨学金を得、1829年から1831年までライプチヒおよびミュンヘン大学で哲学、歴史、文学、芸術を学んだ。博士号取得のための学費は旅費にしてしまい、南ドイツ、オーストリアを歩き回った。

1831年には公爵の力添えでマイニンゲンの図書館司書となり、翌年にはヘンネベルク古代研究協会を創立、民俗文化の保護・促進運動を始めた。1840年には宮廷顧問官、44年にはヘンネベルク文書館総保管人と出世し、創作活動も旺盛で伝説の収集出版、中世に題材を取った叙事詩・物語詩・小説等の他、歴史学や文芸学、民俗学上の著作もあって関心は非常に多岐にわたり、作家・知識人として高く評価されていた。

1845年、ベヒシュタインは大衆的な童話集を出したいという出版人ゲオルク・ヴィーガントの提案に応じ、『ドイツ童話集』(原題『ドイツの童話の本』)を出版する。童話集はたちまち人気を得て次々と版を重ね、発行部数は発売後七年間で七万部を数えた。そこで1853年の第十二版は『ルートヴィヒ・ベヒシュタイン童話集』とタイトルを変え、174枚の挿絵つきで出版されたが、これがまた一大ヒットとなった。全巻通しての挿絵は出版史上初めての試みであった。

1812年にグリム童話の初版が出て以来グリムの業績が評価され、童話への要求が非常に高まっていた時期であったこと、多数の挿絵つきでありながらごく手頃な価格であったこと、さらにルートヴィヒ・リヒターの挿絵が素晴らしく、童話との相乗効果をもたらしたことなど、好条件が重なった結果であった。これらの挿絵は後にグリム童話集の挿絵としても使われるようになった。1856年には全く別の話を収めた『新ドイツ童話集』(原題『新しいドイツの童話の本』)を出版、こちらもたちまち評判となった。両童話集とも、豪華版として、挿絵を減らした大衆版として、また選集として、あるいは一話だけでと、様々な形で刊行され続けていった。1896年には『ドイツ童話集』の第45版が、1922年には『新ドイツ童話集』の第105版が刊行されている。

ベヒシュタインは二度結婚している。最初の妻は息子を生む時に亡くなり、二度目の妻との間には五人の子どもを授かった。有名になってから建てた家の借金に一生苦しみ、ことあるごとに友人に愚痴をこぼすような一面があったが、同時に郷土の文化保存に尽くす気さくな作家・知識人として人々に愛され、尊敬された。1842年には人道と友愛実現のための世界的秘密組織フリーメイソンに入っている。

ベヒシュタインは1860年5月14日、肝臓病によりマイニンゲンで亡くなったが、非常に多作で、500以上の著作を遺した。しかし当時は高く評価された著作も時代とともに意味を失い、現在では童話伝説収集作家としてのみその名を知られ、愛されている。

伝承文学の分野では、生涯に約150の童話、2300の民話を収集、両童話集のほか、『チューリンゲン地方の伝説の宝と伝説圏』(1835〜1838)、『オーストリア帝国の民話・童話・伝説』(1840)、『フランケン地方の伝説』(1842)、『ドイツ伝説集』(1853)、『チューリンゲン伝説集』(1857)を出版するなど、大きな業績を残した。                (「訳者あとがき」より)

 
3.「『悪い子』のための怖くて不思議な童話集」ができるまで

<最初の仕事>

 体調を崩し、日本でやり直そうと決心して帰国した時、ウィーンでは不可能だった翻訳出版を実現させたいと思った。とにかく20年近くいなかった所へ突然ぽんと帰ってきたのだ。キャリアはゼロ。人脈もほとんどないに等しい。最低でも五年は覚悟しなければ。
 児童文学関係のサークルやドイツ語関係の集まりに積極的に参加し、信頼関係を築く努力を続けた。
 そんな中、幸運は別のところからやって来た。非常に感動した本を訳し、出版人でもある友人に見てもらった。友人がある出版記念会で知り合った編集者にその話をしてくれ、その編集者が担当部署にその企画を回してくれた。そして最後の編集者が「やりましょう!」と言ってくれたのだ! 全く神様の贈り物としか思えなかった!

制作の話し合いが始まった。ある時電話で編集担当者が「面白いドイツの童話を知りませんか?」と言う。そこでベヒシュタイン童話集を紹介した。それが一ヶ月ほどで出版に決まり、結局私の初翻訳出版として世に出ることになったのだ。童話への関心が高まっていたこと、ベヒシュタインがグリムとは全く異なったタイプの童話収集作家であったことが大きく幸いしたと思う。 


<メルヒェン翻訳>

 メルヒェンの文体としては一般的に「ですます体」が定着している。私はあの「ですます体」の中に、非日常が日常となるメルヒェン世界の暗黙の了解が組み込まれている、と思って来た。それゆえ「ですます体」で訳した。
 しかし編集担当者からは、この童話集は大人向けに出版したいので、そのメルヒェンのお約束をはずした「だ体」で訳して欲しいと言う。何回かのやり取りがあった後、「だ体」に決定したのだが、そこで私ははたと考え込んでしまった。
 ではいったいどうやって、メルヒェンの世界を表現したらよいのだろう? 「だ体」にしてみると、「ですます体」ではまとまっていたメルヒェンの世界がガタガタと崩れてしまい、目も当てられない姿になってしまったのだ。
 何とかしてヒントを得ようと、ベヒシュタインが各話をどんな文献、どんな言い伝えから取り、またそのどこをアピールしようとしたのかについて書かれた資料を片っ端から読み、彼が何を書きたくてそのモチーフを選んだのか、なぜ筋がそうでなければならなかったのかを、考え直してみた。
 こうしてもう一度最初に戻って考え続けているうち、ようやくベヒシュタインの人間の内なる声、内なる正義に従おうとする姿勢、権威を批判し、笑い飛ばす精神、人間としての自立を促そうとする願いを表現するにふさわしい文体が、私の中にまだはっきりとはつかめないながらも姿を現してきた。

 けれども「だった」と「であった」、「だ」と「なのだ」、たった2字の違いがどれほどに異なった世界を表現していることか! 当然ながら語尾だけでなく、全体のリズムにあわせて文中の訳語や言い回しも変えなければならない。よりベヒシュタインの世界に近い、新しいリズムを持った翻訳。今思えばこれは新しいメルヒェン世界の構築というより、私自身のメルヒェン翻訳観との格闘だったのだ。信仰のようになっていた「ですます体」に私自身が捕われていただけだったのだ。

 初翻訳出版の実感は発売日にわあ〜っとではなく、最後の仕上げ、裏表紙や帯の文決定のための頻繁なやり取りの中で、じわじわと湧き上がってきた。
 その時私はオーストリアの小さな山村にいて、通信手段は村の郵便局のファクスしかなかった。宿から
15分歩いて通い、宿に戻って直しやコメントを書いては、また郵便局に出しに行った。
 編集担当者とは出版方針や文体、あるいは一つの言葉を巡って随分とぶつかった。けれどもオープンにそれぞれの立場を出し合ったことで、ぶつかりながら、しだいに新しい一つのものに近づいて行けたのだと思う。最後にはまさに一致協力を実感しつつ、山の宿で、一冊の本は翻訳者と編集者との共同作品なのだとしみじみ思った。
 制作を通して本当にたくさんの勉強をさせてもらった。優秀な編集者と友人たちの協力を得てスタートを切ることのできた私は、非常に幸運だったと思う。この思いをこれからの開拓のエネルギーにして行こうと思っている。                             (『通訳・翻訳ジャーナル』2002年5月号、第82回「千里の道も一歩から」、イカロス出版)

 

 

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