5.作家の歩んだ人生と作品の関係は?
―ベヒシュタインを巡って
2002年9月の掲示板で、ベヒシュタイン童話の特性から始まって、作品と作家の辿った人生との関係、作家の人生への心理学的アプローチによって作品をより深く理解すること、またある本をよい、と感じる時、それは一体、本の持つ何が、読者の何に訴えるのだろう? またある人の感動する本が、別の人には何の感動も与えないことがあるのはなぜだろう? といった興味深いテーマが次々に話題になりました。
それで、MakiさんとMinekoさんにご了承を頂き、ここにその時のやりとりを再構成して、みなさんにも読んでいただこう、ということになりました。皆さん、私はこう思うんだけどな、とか、そう言えば思い出したんだけどね!とかいったご意見をどんどんお寄せ下さいね。皆で額を寄せ合って、話し合ったり、また別の問題点に気づいていけたらいいな、と思います。
お寄せ頂いたお便りは、またCaféに掲載させて頂きますので、どしどしどうぞ!次々と参加者の輪を広げて行けたら、素敵ですよね。
ここは完成品を並べる場所ではなくて、ああだ、こうだと、言わば、「声を出して考える」気楽な井戸端会議の場です。たくさんの?や!が出てくれば大成功。三人寄れば文殊の知恵、じゃ十人寄れば何の知恵?みんなでいっしょに考えていくのって楽しい!みなさん、どうぞ参加してね!
★ ★ ★
まず、Makiさんから、ベヒシュタイン童話の感想と、童話の生まれた背景についてのお便りが届いたのが、始まりでした。
<ベヒシュタイン童話の特性>
べヒシュタイン、読み出したら、あっというまに読んでしまいましたよ。痛快なお話も、悲しいお話も、おかしいお話も、こわいお話も、どれもパワフルでした。
グリムとの違いはキリスト教的なモラルの度合いでしょうか? たくましく、したたかに生きている民衆に支持されたお話、というのは、すごくうなずけました。 グリムがミドルクラス出身なのに対して、べヒシュタインは子供時代から苦労をしているのですね。 そういった世界観もすこし垣間見られるような気がしました。
べヒシュタインも、時代的、思想的にはロマンチッックムーブメント(ドイツ語ではなんというのでしょうか?)の影響を受けていますよね?
あけみさんの訳文も、ダークではなく、からっとしていて、子供たちと一緒に読むのにすごくいいです。特に印象的だったおはなしは、「クッテンベルクの三鉱夫」 「へび乳母」 「裏切られた友情」 「口をそげ」です。
まだまだお話したいこといっぱいですが、また来ますね!
(2002.9.14,
Maki)
Makiさん、私が投げたボールを真正面からしっかと受け止めて下さったような書き込みに感動しています。すご〜く嬉しいです!そして楽しめて頂けて、幸せ!
グリムもベヒシュタインもロマン主義(ドイツ語ではロマンティク
[Romantik])の影響下にある人たちですが、旧市民層に属していた
グリム兄弟と、貧困と私生児という出生を負ったベヒシュタインとでは
受け止め方が違ったんですね。
童話には(キリスト教から見れば)異教的な要素が多く含まれていますが、キリスト教的モラルは発展しつつある市民社会のモラルでもありましたから、グリム童話はキリスト教モラルをかなり取り入れていますね。ベヒシュタインも程度は違ってもやはり取り入れていますけれど。
ベヒシュタインは、自分の人生体験から、自分から人生を切り開いていける子どもたちを育てたいと思ったのではないでしょうか。それで、若者が旅に出ていって困難を克服し、幸せを掴む、というポジティブ型のお話が多いのではないかと思います。ベヒシュタインの童話がパワフルなのはそこから来るのではないかしら。
Makiさんが好きなお話、私もぜ〜んぶ大好き!
「クッテンベルクの三鉱夫」で私にとって特に印象的なのは、心の底から願い、信じ、努力することは、本当に実現する、という心理学の真実が、恐ろしいくらいに鮮やかな形で迫ってくること。それから最後に抱き合って死んでいく二人が王子さまとお姫さまではなくて、鉱夫とそのおかみさんだというのが、とっても素敵だと思います。
愛の表現では、「カタカタ」もとても好きです。自分を騙した故に骸骨になっても成仏できずに苦しむ昔の恋人を、今は老婆になった娘が赦す場面が、すごくいいと思います。
訳文が子どもたちと一緒に読みやすい、と言って下さるとすごく嬉しい!「訳書紹介」のところに書いたのですが、実を言うと、訳文の文体では色々悩み、苦労したので。それが報われたのがとっても嬉しいです。こういうの、訳者冥利に尽きる、って言うのよね!
本当にありがとうございます!どうぞまたご意見、色々お聞かせ下さいね。(あけみ)
「クッテンベルクの三鉱夫」についてのお話、まさにそうそう!そんな気持ちでした。 そうなんです!この童話集は、心にぐっと迫ってくるものが、その迫り方が、今いっぱい出回っているシューガ−コーティングされたお話とは、ぜんぜんちがうんですよね。
そういう読書体験を子供たちにしてもらいたいと思いました。(2002.9.16、Maki)
<作品とその作家の歩んだ人生>
やっぱりそう感じて下さった?!うれしいな!
私はベヒシュタイン童話のパワフルさ、率直さ、建前でない正義感というのかな、こう言う性格は、彼の歩んだ人生ととても密接な関係があると思っているの。
だから、父を知らず、母親にも捨てられ、叔父夫婦にも本当の心の拠り所を見つけることができずに、一人で人生を切り開かなければならなかった彼の生きた道を、心理学的にアプローチしていったら、色々なことが分かりそうな気がしているの。
そうしたらステイタスシンボルに憧れたことも、気さくでありながら、
一人で自然の中にいるのが好きだったり、結構恨みがましい面を
持っていたりしたことも理解できるような気がするのね。
そう、Makiさんは心理学を勉強されてるんでしたよね。(2002.9.16、あけみ)
<交流分析>
実は私が立ち直るのに支えになってくれた柱の一つは
交流分析なの。交流分析には関心お持ちですか?
自分の中には5人の自分が住んでいる。
それは保護する親、批判する親、大人の自分、自由な子ども、そして適応する子ども。どの自分がどのくらいの強さを占めているか、で自分の行動パターンがわかる、というこの分析は素晴らしいと思います。
ゲームの理論や、人生脚本にもすごくうなずけるし。
口語の精神分析と言われるだけあって、自分がはまっていた行動パターンが分かるだけではなくて、これからどうすればよいのかもわかる。
私はいわばあの本、「だいじょうぶ!ひとりでも生きられる」を精神的支えに、そして交流分析を理論的支えにして、立ち直れたのね。
だから大学に入りなおして、勉強したいくらい、交流分析には関心を持っているの。
日本でも、けっこう本は出ているけれど、関心を持つ普通の人が
詳しく勉強していくための、これ!という本がなかなかありません。
いつか訳して下さったら、嬉しいな。(あけみ)
あけみさん、ベヒシュタインについて私ももっと知りたくなってきています。すごく人間らしさを感じます。
交流分析、初めて聞きました。 今までは、子供の発達心理学を中心に勉強してきて、精神分析については、まだ専門的には学んでいないので、いろいろな理論、セラピーについては、まだまだ知識不足です。
今学期は、Abnormal Psychologyと、Personality Developmentの2つのクラスをとっています。
交流分析、どのようにメジャーするのですか? 質問に答えていく形式でしょうか? よかったら、また教えてください。(2002.9.16、Maki)
Makiさん、交流分析Transactional
Analysis(TA)は、米国の精神科医
E.バーンによって提唱された性格理論&それに基づいた治療体系で、私が最初に出会ったのはウィーンで買った2冊。
テストをしてエゴグラムを作ると、どの自分がどのくらいの割合で存在しているのかがわかるの。で、最も低い自分を高めていくようにすると自然にバランスが取れるようになっていくのね。半年ごととか、一年ごとにエゴグラムを作ってみると、自分の変化がとてもよく分かる。
私が読んだのはドイツ語版だけれど、原書初版は、
Thomas A.Harris:I'M OK-YOU'RE OK,Harper&Row,New York 1967
Amy Bjork Harris,Thomas A.Harris: Staying ok, Harper&Row,NY 1985
で、後で知ったところによると、古典的著作。
この本でTAに関心を持ったの。その後日本で邦訳および日本人による著書を読みました。
日本語の入門書で現在入手できるものには、次のような本があります。
関心を持たれた方は、どうぞご参考に。
■「交流分析のすすめ―人間関係に悩むあなたへ」
杉田峰康・著、日文選書、日本文化科学社、\1400、1990年
■「人生を変える交流分析」
池見酉次郎、杉田峰康、新里里春・著、創元社、¥1500、
2001年
■新装版「こじれる人間関係―ドラマ的交流の分析」
杉田峰康・著、創元社、¥1600、2000年
■「人生ドラマの自己分析―交流分析の実際」
杉田峰康・著、創元社、¥1600、1976年
<感動のみなもと
― ある人がある本に惹かれるのはなぜ?>
あけみさん、Makiさんこんばんは。
ベヒシュタインの生育歴がベヒシュタインの童話と密接にかかわっている、そこのところを緻密に心理学的にアプローチしていくととてもおもしろそうです。
彼が生きていく上で必要としてきた要素を必然的に多くひろってくることになった結果の集大成として、ストレートで強靭なたくましさを感じる再話がなされているのですよね。きっと。
そして書く側に、生育歴によって主題へのアプローチに大きな違いがあるとすれば、読む側がそれを受け止める時にも、どこの部分が琴線にふれるのか、そもそもタイトルや表紙、はじめの数ページや、書評を見て、どうしてその本を手にするようになったかにも、相応の生育歴による違いがあるはずですよね。
これまでお二人にお話したことなかったとおもうのですが、私、実は心理学科挫折した苦い経験を持っています。小学校の頃から、父のこと、父と母との関係性が一番の命題としていつもあって、高校の時に進路は精神医学か心理学、と思い詰めての選択と結末でした。
結婚後も決して解決をみたわけではないその命題を半端にぶらさげたまま、病跡学の本などむさぼり読みました。これは天才の達成した仕事を精神医学の側面から跡づけていくものです。
あけみさんが説明して下さったTAのP、A、C(5人の自分)はとてもわかりやすいし、沈着に自分をふりかえろうとした時にそのてだてにできそうですね。(2002.9.16、みねこ)
みねこさん、私も小学校の時から見てきた父母の関係、家族関係への疑問がいつも頭にあって、それにさらに中高で生まれた宗教や教育への疑問なんかが重なって、社会学を勉強したいと思ったのよお。
疑問が解けそうな気がして。(2002.9.17、あけみ)
<本と読者の間の感応>
みねこさ〜ん、
>彼(ベヒシュタイン)が生きていく上で必要としてきた要素を必然的 >に多くひろってくることになった結果の集大成として、ストレートで >強靭なたくましさを感じる再話がなされているのですよね。きっと.
自分自身も、また私が関わってきた人たちも、それぞれが抱えてきた問題が、どんなにその人の子ども時代の体験(心理体験)の決定的影響を受けているかを身に沁みて感じてきたからよけいに。
>そして書く側に、生育歴によって主題へのアプローチに大きな違いが >あるとすれば、読む側がそれを受け止める時にもどこの部分が琴線に >ふれるのか、そもそもタイトルや表紙、はじめの数ページや、書評を >見て、どうしてその>本を手にするようになったかにも相応の生育歴に >よる違いがあるはずですよね。
そう思う!
だから、ある本を読んでみたい、と思う時も、読んでよかった!と思う時も、それはその本が伝えようとしていることと、自分の中でその時重みを持っているものとが感応しあった、っていうことなのよね。
それで、ある人にとってある本がとても素晴らしくても、別の人には
何も響かないということも当然ある。(2002.9.19、あけみ)
<感動はどこから来る?>
>だから、ある本を読んでみたい、と思う時も、読んでよかった!と思 >う時も本が伝えようとしていることと、自分の中でその時重みを持っ >ているものとが感応しあった、っていうことなのよね。
本を薦めるむずかしさ、本を語るきわどさ、でも本を語らずにはいられない理由、本を語る楽しさが、あけみさんのこの一文に集約されていますね。
万人に共通ではありえない、とても個人的な体験、「ああ、よかった」と言った時、その「よかった」の内実は千差万別であろうこと、そこらへんの機微を承知した上でかわされる本についての話は楽しい!
「心のやさしさ」「思いやりの大切さ」「よい子になるための諸要素」「家庭婦人のあるべき姿」へと結末を導きたいという意図がみえみえの絵本や物語に底の浅さを感じてしまうのは、あけみさんがおっしゃっている受け止める各自のありようと、内容とが感応する、という意味でのキャパシティーが、とても狭いものになってしまうからでしょう。
フィクショナルな物語の内容でも例えば家父長たる父の正義が家族の信条となってしまっているようなものには、登場人物が互いに関係をもちつつ変化していく可能性が閉ざされてしまっていて同様の懐の狭さを感じます。
ここのところは「語り(お話)」についてのChikaさんの、受け止める側にゆだね、受け止める側の想像力に働きかける要素が残っているか否か、というあたりににつながっていくことでもあるふうに思うのですが。(2002.9.20、みねこ)
そのへんはきっと、その内容が、書く人が深い内なる願望をどうしても語りたい、というやむにやまれぬ衝動から出ているのか、それとも
何か到達すべき型、その社会が要求する理想型、にはめ込もうとしているのか、にきっと関わってきますよね。
Minekoさんの書き込みを読みながら、パッと頭に浮かんだのが、
ドイツのゲルベルク出版のハンス・ヨアヒム・ゲルベルクが
マルティン・アウアーを紹介する文の中で書いている次の言葉。
>非常に重要でありながら、児童文学のテーマとしてどうしようもなく
>扱いの難しいのが、人間らしさを奪っているものから私たちを
>解き放ち、人間らしく生きることに一歩踏み出そうとする背中を
>押す、という側面である。
>ごく普通に見える、あるいは一見立派に見える形を取って、何が私た >ちを知らない間に奴隷にしているのか
>(児童文学はなにしろその例に事欠かないのだ)を見分けるのは、
>非常に困難であるし、またそれを追い払うのもとても難しい。
これもやはり大人として子どもに呼びかける作者が、なぜその本を
書きたいと思ったか、どこからその情熱が来ているか、
に関わってきますよね。
著者自身が社会の期待に添う(応える)人間になることを成長とみなし、そのような人間を育てることが大人の使命だと思っているか、
あるいは人間として、深い内なる自己の声を育てて行こうね、
内からの声を聞きながらそれを伸ばして行く人間になって欲しい、
と呼びかけるのか。
心の内なる声(心理学用語で魂の叫びというそうです)に呼びかける本には、やはり読者の内なる声が応えるのではないでしょうか。
(2002.9.20、あけみ)
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