・更新日誌・
2005年2月5日(土) お菓子屋さんの舞踏会
昨晩、お菓子屋さんの舞踏会に行って来ました! 会場はウィーンの二大コンサートホールの一つ、コンツェルトハウス。 何しろお菓子屋さんの舞踏会ですから、正面階段のところでは、シシィ(エリーザベト皇后)の格好をしたおねえさんが、シシィ・ターラー(チョコ)を配っているし、予約したテーブルの上にも、どうぞ、どうぞ!ってチョコレートがたくさん置いてあって、みんなおいしそうだったので、夜遅いのに食べてしまいました!
舞踏会って、お金持ちの社交の夕べで、オープニングで踊るのは、良家の子女、って思っている方、多いと思います。オペラ座舞踏会なんかは確かにそうだけれど、もともと舞踏会(バル、Ball)は、基本的には職業組合の主催で行われ、職業仲間の親交を深め、オープニング
のデビューは、うちの息子・娘も一人前になりました
、みなさん、どうぞ職業組合の仲間に、よろしく迎えてやってください、というお披露目の意味がありました。 だから、医師会や弁護士会だけじゃなくて、パン屋さん、ペンキ屋さん、消防士など色々な組合のバルがあります。
会場も、王宮、市庁舎、ウィーン市内の貴族の宮殿のほか、ホテルの大広間や、各区の出会いの家(公民館)で開かれるのまで色々。 服装は、イヴニングドレスとタキシードが一般的ですが、特別のオペラ座舞踏会では、男性の燕尾服が義務付けられています。切符もすごく高いオペラ座舞踏会から、王宮などで開かれる50〜100ユーロくらいのもの、服装の規定もなくて、ごく気軽な普通のダンスパーティみたいのまで、それはそれはたくさんあります。
だから舞踏会は、お金持ちから、ごく普通の庶民まで、ヨハン・シュトラウスが現れた頃から、だんだんとウィーン市民に根付いた、謝肉祭の一つの過ごし方なの。舞踏会の歴史については、こちらをどうぞ!
お菓子屋さんの舞踏会では、大ホールと、二つの小ホール、それから地下のホールがダンス会場になっていて、地下はディスコになっていました。レストランやカフェもあります。とにかく混んでいたので、フィガー(バリエーション・ステップ)なんてほとんどできないくらいだったけど、それでも上手な人たちはガンガン、フィガーも踊ってました。ぶつかられるので、こっちは青あざができそうでしたよ。
そうそう、すぐそばで60歳くらいのカップルが踊っていたんだけれど、それはそれは見とれちゃうくらい上手なの! しかも二人とも、もう楽しくって、楽しくって!っていう感じで、息もピッタリ合っているし、幸せそうに見つめ合っていて、とにかくもう、心底ダンスを楽しんでる様子が伝わって来て、いいなあ、私もあんな風に誰かと踊りたいなあ、と思ったことでした。
バルは、たいてい開場が夜8時、オープニングが9時、そして終わるのは朝の4時か5時です。夜中の12時には、どこの舞踏会でも工夫を凝らした催しが開かれますが、お菓子屋さんの舞踏会(ボンボン・バル)では、毎年恒例の、ミス・ボンボン選考会が行われました。選ばれたミス・ボンボンは、秤にかけられ、もう一方のお皿には、チョコウェハスの箱がだんだんと積まれ、彼女の体重と同じになるまで量ります。で、そのチョコウェハスは、SOS子どもの村に寄付されます。来年からは、ミスター・ボンボンも選ばれることになったそうです。選ばれると、お菓子のコマーシャルに出られます。4ユーロの福引では、500g詰めの大きなマジパンとチョコレート
一枚が当たりました。
ま、こんな風に、踊ったり、食べたり、しゃべったりと楽しんで、1時頃に会場を後にしました。
2005年1月27日(木) 強制収容所解放60周年
第二次世界大戦も終わりに近づいた1945年1月27日、
ついにポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所が解放されました。その時、7,000人の人が生き残っていました。今日はその60周年。
アウシュヴィッツ強制収容所で、午後2時から式典を生中継と聞いていたので、見ようと思っていたのに、仕事をしているうちに忘れてしまい、もう終わってしまったのでは、と思いつつ、4時半にテレビのスイッチを入れたら、0℃の気温と雪が降りしきる寒さの中で、今各国代表が、慰霊のろうそくを順番に捧げているところでした。オーストリアからはフィッシャー大統領が参加。収容所を生き延びた人々も参加していました。
ここだけでも150万人、全ての強制収容所を合わせると1,100万人が殺害されたという大量殺戮。ユダヤ人ばかりでなく、ロマ(ジプシーと一般に言われる放浪民族)、障害者も犠牲になりました。これだけの恐ろしい犯罪が行われていることが知られていながら、なぜ解放がこれほどまで遅れたのかについて、ある研究者は、余りに残酷過ぎて、人間の想像力を絶していたために、正しい状況把握ができなかったためではないか、と言っていました。でも、その想像を絶することが現実に起きたのだし、これも人間のしたことだったのです。私たちには知る義務がある、想像力を訓練する必要がある、と思います。私は恥ずかしいことですが、まだあの『夜と霧』(フランクル、みすず書房)を読んでいません。読みます。
2005年1月19日(木) 今年初めての雪!
暮からずっと、ばか暖かかったウィーンですが、年明けてだんだん寒くなり、昨日は、5階の窓ガラスに貼り付けた外気温計では一日中ほぼー1℃でした。
で、今朝起きてみたら・・・外は真っ白! ついに雪が降りました!
今年になって初めて、この冬にすれば3度目。昨年の11月以来です。
これでやっと平年に少し近づきました。雪景色も、キリッとしていいものよね!
日本も寒くなってきたと聞いています。
みなさんも風邪に気をつけてね。
2005年1月13日(木) ついに点訳本完成!
たった今、ガンコさんから、「にぎやか色のちび」と「赤いロッコと緑のギル」点訳絵本完成!のお知らせがありました! もう、小学校高学年、中学生、高校生は読んでくれて、メッセージをしっかり受け止めてくれたそうです。
点訳本ができたおかげで、視覚障害者の方々のところにも、ちび、ロッコ、ギルが訪ねて行けるようになりました。
これからたくさんの方たちに読んでいただけますように!
点訳への思いを行動にして下さったひとみさん、それをしっかり受け止めて点訳をして下さったガンコさん、そしてセンターの方々始め、ご協力くださったたくさんの方たち、ほんとうにありがとうございました。
では、みんなで、「にぎやか色のちび」と「赤いロッコと緑のギル」の点訳本完成、おめでとう! かんぱ〜い!!!
↓をクリックすると、大阪府立図書館のHPが出ますので、そこの
「わんぱく文庫」をクリックしてね! 視覚障害を持つ子どもたちのための文庫です。まだ、できたての2冊ははいってないと思うけど、
見てみてね。
http://www.library.pref.osaka.jp/kodomo/index.html
2005年1月1日(土)
明けましておめでとうございます
2005年 元旦
*ただ今、画像処理ができない状態に陥っています。すでに保存済みの画像しか使えないので、直るまでしばらくこの画像で我慢してね。
大晦日は、ハンブルクと沖縄からのお客様も含め、11人で賑やかにパーティを開きました。それぞれが得意料理を持ち寄って、超豪華版のお食事になりました。今回は和風・中華風で、五目寿司、おいなりさんを中心に、懐石風野菜料理、お豆腐料理、沖縄料理、本格派酒の肴、年越しそばにてんぷらなど、もうみんなおいしくて、おいしくて・・・!デザートはお汁粉。これもとっても久しぶりで
、大満足!11時半くらいからドンドン打ち上がり始めた花火を5階の窓から眺めながら、0時きっかりにシャンパンで「おめでとう!」の乾杯をして、めでたく新年を迎えました。
楽しかった〜ぁ!お開きになったのは午前2時頃。床に就いたのは4時ごろ。
でも元旦はがんばって起きて、お雑煮を作り、ほんの少し日本のお正月を味わいましたよ。11時からは恒例のニューイヤーコンサート。ローリン・マゼルの指揮で、軽快なシュトラウスを楽しみました。
日本で聞いている人たちと、同時に同じ画面を見ているんだと思うと、何だか一緒に会場にいるような気持ちがして、不思議に嬉しい気分でした。
さあ、では元気に新年の生活開始! 楽しく行きましょうね!
どうぞ新年もよろしくお願い致します。
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