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ウィーンの劇場・
半年近くもの間、厳しい冬に耐えなければならないウィーンの人たちは、長くつらい季節を上手に楽しく過ごす手立てを知っています。
まずはミュージカル「エリザベート」の発祥地となったアン・デア・ウィーン劇場から。 ♪アン・デア・ウィーン劇場 THEATER
AN DER WIEN ミュージカルの拠点 ウィーン随一の食料品市場、ナッシュ・マルクトの向かいに立つアン・デア・ウィーン劇場が開かれたのは、1801年。十九世紀初頭からウィーンの民衆劇場の発展を担い続けてきた、輝かしい伝統を誇る劇場である。 アン・デア・ウィーン劇場(「ウィーン川畔の劇場」の意)は、ヴィーデンのフライハウス劇場を主宰していたエマヌエル・シカネーダーにより、フランツ・イェーガーの設計で、手狭になった旧劇場の代わりとして建てられた。ウィーン川は今では見えないが、暗渠となってナッシュ・マルクトの下を流れている。 シカネーダーと言えばモーツァルトのオペラ「魔笛」の台本作者として知られているが、まさにその「魔笛」初演(1791年)がこの劇場建設およびその後の大発展の起点となった。シカネーダーは演出もし、また自らパパゲーノを歌った。劇場の建物裏側入口上部(当時の正面入口)には今でもパパゲーノに扮したシカネーダーとその子供たちの像が残っている。 皇帝臨席のもと、タイバーの歌劇「アレキサンダー」で華やかに開かれたアン・デア・ウィーン劇場は、1869年にオペラ座ができるまで、大きさから言っても舞台装置から言ってもウィーン最大の劇場であった。 「フィデリオ」の初演劇場 1803年にはベートーヴェンが住み、1805年11月にはここで彼の歌劇「フィデリオ」が初演された。1810年、パルフィ伯爵が劇場主になると、優秀な指揮者とスター歌手の客演、豪華な舞台装置によって、数年のうちにドイツ語圏の中でも第一級のオペラ劇場に数えられるようになった。パルフィはまた同時に戯曲にも積極的に取り組み、まだブルク劇場では上演できないとされた実験的な作品を上演した。こうして1810年にはクライストの「ハイルブロンのケートヒェン」が、1817年にはグリルパルツァーの「祖先の女」が初演され、ここから急速にドイツ語圏に広まっていくのである。 1825年に劇場を引き継いだカール・カールは、特に稀代の名優かつ戯曲作家であったヨハン・ネストロイの採用によって、幾つもあったウィーンの民衆劇場の中で、アン・デア・ウィーン劇場の支配的地位を確立した。ネストロイは鋭い筆と名演技とでビ−ダーマイヤー時代の小市民的な満足感の欺瞞性を暴き、表向きの平安に隠れた社会不正や精神の怠惰を風刺し、その作品の多くがここで初演された。 オペレッタの黄金・白銀時代 次の支配人ポルコニィ(1845〜50年)はフランス・オペレッタの導入に努力、こちらの方は失敗に終わるが、同方向を目指したズッペのオリジナル・ウィンナ・オペレッタ「寄宿学校」で成功し、ここに「ウィンナ・オペレッタの黄金時代」(〜1900年)が開花する。オッフェンバックが次々に上演されて爆発的な人気を博す中で、ズッペ、ミレッカーが活躍、しかし黄金時代の頂点は、何と言ってもウィンナ・ワルツの完成者、ヨハン・シュトラウスであった。シュトラウスはウィーンのダンス音楽とウィーンの音楽劇との統合を目指し、歌で表現された舞踏とでも言うべき軽妙洒脱なメロディーで世界を制覇した。 ほとんど全ての作品がここで初演されたが、1874年の「こうもり」はその中でもウィンナ・オペレッタ最高の作品と言うにふさわしく、1930年までに世界中で5万回以上も上演された。 二十世紀に入ると支配人カルツァク(1901〜22年)は、フランツ・レハール、エンマリッヒ・カールマン、オスカー・シュトラウス等を発見して「ウィンナ・オペレッタの白銀時代」を築き上げた。 ヨーロッパ・ミュージカルの拠点 戦後1945年から10年間は、戦災により破壊された国立オペラ劇場がここに場所を移して公演を続けた。引越し初興行は「フィデリオ」であった。アン・デア・ウィーン劇場の存続を巡っては長い間議論が闘わされたが、最終的にウィーン市が買い取ることに決定し、大改修の後、1962年に再開された。その後はミュージカルの上演に力を入れ、現在では「オペラ座の怪人」「フロイディアーナ」などの公演により、ヨーロッパ・ミュージカルの拠点としての地位を確立、クラシック音楽の都ウィーンに新しいイメージを添えつつある。(「維納倶楽部」1992年2/3月号) ♪ブルク劇場 BURGTHEATER 帝室劇場の伝統
ウィーンの劇場(演劇)について語る時、真っ先に挙げなければいけないのはやはりなんと言ってもドイツ語圏でも最も水準が高いとされるブルク劇場であろう。その始まりは1741年、ある興行主がマリア・テレジアより王宮内の劇場での興行許可を得た時にまで遡る。しかし単に王宮の一施設に過ぎなかったこの劇場が歴史上大きな意味を持ち始めるのは、啓蒙専制君主として様々な改革を試みた息子のヨーゼフ二世が1776年、この帝室劇場を国民に解放してからである。 ヨーゼフ皇帝はドイツ語圏にもコメディーフランセーズと肩を並べる質の高い国民劇場を実現したいと言う大計画を立てた。当時貴族はフランス演劇やイタリアオペラを好んでいたため、それまでここでドイツ語作品が上演されたことはほとんどなかったのである。俳優の身分と生活を保障するため、画期的な年金制度も作られた。この改革が成功したのはもちろん皇帝の革新性と実行力、芸術・文化への理解によるところが大きいが、同時に時代が好条件を提供したことも見逃せない。 シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤時代、古典主義の後、ロマン主義の前ぶれとなった文学思潮)を経たドイツ文学は、ようやくそれまで支配的だった、誇張され型にはまったフランス演劇の影響から離れて、舞台でも実生活のように自然で生き生きと演じられなければならないという認識を持つようになっていたのである。上演されたドイツ語作品はまだ平均的な水準のものが多かったにもかかわらず、ドイツ語圏中から選りすぐった俳優たちの名演技により、ブルク劇場は一躍名を馳せるようになった。他方、ウィーン方言で演じられ、政治的なアドリブも入り、歌と音楽も入った魔法や皮肉いっぱいの民衆演劇は相変わらず愛され続け、こちらの方はまた別の発展を遂げることになる。 さて1814年、シュライフォーゲルが支配人になるに至って、ブルク劇場の質的大発展時代がやって来る。1812年以降オペラやバレーの公演はケルントナートア劇場に移り、戯曲のみが上演されるようになっていたが、シュライフォーゲルはクライスト、グリルパルツァーなど水準の高いドイツ語作品を数多く上演し、外国作品はそれまでの歪められたものに変わって原作の翻訳を使用した。またある役を演じて成功した俳優がずっとその役を独占すると言う悪習を打破しようと努力した。 1849年、フランツ・ヨ―ゼフ一世の治世が始まった翌年には、リアリズム作家ラウベが支配人となり、シュライフォーゲルの伝統を継ぎ、先進的な精神を取り入れようと努力、グリルパルツァーやヘッベルを精力的に上演した。同時代の戯曲家であり、現在ではブルク劇場で上演されるライムントやネストロイは、作品が方言で書かれていたために当時は格調が低いとみなされ、生存中にはここで上演されることはなく、民衆劇場で人気を博していた。 十九世紀半ばに始まった皇帝の「建設時代」と共に、ブルク劇場もそれまでの手狭になったミヒャエラー広場から、環状道路に移ることになった。1888年に完成した豪華な現劇場は、外部はイタリア盛期ルネッサンス様式を、内部はバロック様式を模しており、外側上部には、カルデロン、シェークスピア、モリエール、ゲーテ、シラー、レッシング、ハルム、グリルパルツァー、ヘッベルの胸像が見られる。 1918年、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と共にウィーンはそれまでの政治的意味を失ったが、その分なおさら文化的中心としての地位を保とうと努力した。劇場はしかし45年終戦の直前に爆撃を受けて焼け落ち、再建が成ったのはようやくその十年後であった。 戦後は保守的な停滞の時期が続き、70年代に入ってようやく再び時代の精神を取り入れようという試みが始まった。1986年秋には、ヨーロッパでも有数の劇場支配人であり監督でもある現支配人、クラウス・パイマンが就任、古典作品の時代と共に意味の失われた部分を剥ぎ取り、現代にも意味を持つ本質的な部分を浮かび上がらせる新しい演出に力を入れている。「リチャード三世」に代表されるシェークスピア作品の演出や、ゲーテの「クラヴィーゴ」などがその好例である。また現代オーストリアの代表的作家トーマス・ベルンハルトの作品など数多くの初演も行い、保守側からの批判と闘いながらも、しだいにブルク劇場に新しい時代を開きつつある。若い観客が着実に増えてきているのも、パイマンの信条が広い層に受け入れられつつあることを証明していると言えよう。(「維納倶楽部」1991年12月/1992年1月号) ♪ヨーゼフシュタット劇場 THEATER
IN DER JOSEFSTADT
個性と伝統の民間劇場 十八世紀の終わりから十九世紀の始めにかけ、ウィーンは世界的な劇場の都として栄えた。特に注目すべきなのは、帝室劇場と民衆劇場とが同様の高い質的水準を保ちつつ、互いに影響しあって創造的発展を遂げたことで、これは他の都市に例を見ない。当時の民衆劇場のうちで、レオポルドシュタット劇場、アン・デア・ウィーン劇場と共に大きな役割を担った三つの劇場のうちの一つが、ヨーゼフシュタット劇場であった。 ヨーゼフシュタット劇場は1788年、喜劇俳優カール・マイヤーによって建てられた。マイヤーは「最上の喜劇、オペラ、バレエおよびパントマイム」の上演を方針とし、演技の質から言えば多少落ちたものの、大衆的な作品と豪華な舞台装飾・衣装でうまく観客の心をつかんで大成功、1791年には皇帝ヨーゼフ二世によって特典を与えられ、さらに皇帝自ら外国からの賓客と共に臨席するという名誉を得た。マイヤーはこの大衆路線で24年間劇場を主宰した。次のアロイス・グライヒは、当時まだ旅回り劇団にいた若いフェルディナンド・ライムントを発見、三年契約(1814〜17)を結んだ。ライムントはこの時代に自らの喜劇俳優としての才能を自覚、本来の望みであった英雄役を諦め、以後道化役に専念することになる。 1822年、建物は取り壊され、同じ場所に倍の大きさを持つ劇場が新築された。最新の舞台装置を持ち、14のボックス席のほか、特等仕切り席も400席あった。劇場内部は当時のビーダーマイヤーの流行色、グレー、ブルー、シルバーで統一されていた。 1834年には既に著名な劇作家となっていたライムントの「浪費者」の初演に成功、真の幸福と人間の偉大さは足るを知る心にある、という高慢になりすぎた時代への警鐘を、悲劇と喜劇、社会問題と妖精の世界を見事に交錯させながら描いて観客の心に食い入り、二ヶ月の間に40回公演という大記録を打ち立てた。 1836年のライムントの死後は一時センチメンタルな大衆迎合路線に堕するが、ポコルニィの代になると、ズッペを楽長に抱え、歌と踊り、笑いと涙いっぱいのロマンティック・コメディー、トルトの「魔法のヴェール」(1842)で爆発的な成功を収め、翌年の200回記念公演には皇帝フェルディナンド一世も皇妃アンナと共に観劇した。 ウィーンの民衆劇は、誇張した身振り、色彩豊かな衣装、妖精やアレゴリーの登場する魔法の世界、笑いと涙などの民衆バロックの要素をロマン主義やビーダーマイヤー趣味の中に生き生きと組み込むことによって独自の境地を開き、ヨーロッパ演劇の発展に大きな影響を与えた。 世紀の変わり目に支配人となったヨーゼフ・ヤルノー(1899〜1923)は、質の高い大衆劇や民衆劇を上演すると同時に月曜日を「文学の夕べ」とし、とりわけ自然主義作家のストリンドベリとヴェデキントをウィーン演劇界に取り入れるべく努力した。こうしてしだいにコメディーと文学の劇場としての伝統ができていった。 1942年からは近代演劇の改革者として世界的名声を持ったマックス・ラインハルトがベルリンから戻って来て主宰者となり、良い俳優を見分け、その能力を伸ばす力を持ったウィーンの観客を得て改革をさらに進め、数多くの古典および現代作品を精力的に演出、ファンタジーを重視した印象主義的舞台空間を創造することによって自然主義的演出法を乗り越え、現代演出法の基礎を打ち立てていく。上演作品の重点は劇場と観客に合わせ、しだいにコメディーの要素を持った大衆演劇に移っていき、ここに色彩豊かでダイナミックな演出と最高度の演技による質の高い大衆演劇が生まれた。ラインハルトは実質的にはしだいにヨーゼフシュタットを離れるが、1938年のヒットラーによるオーストリア併合まで14年間、才能のある俳優による縁起の質の高さはずっと保たれた。 戦後も基本的にはずっとラインハルトの確立した方向にのっとって上演が続けられ、観客も一度行ったら一生通い続けるというような特別なファンが多い。八十年代の終わりに支配人となったオットー・シェンクは、マンネリ化しがちな演目にアクセントをつけ、若い観客を獲得すべく努力しているが、民間劇場であることもあり、固定ファンを裏切れないと言う難しさも抱えている。(「維納倶楽部」1992年4/5月号) ♪ライムント劇場 RAIMUND
THEATER 客演とミュージカルの劇場 十九世紀後半、ウィーンではフランツ・ヨーゼフ皇帝の大環状道路建設に象徴される工業化の急速な進展に伴って社会構成が大きく変化、新興富裕市民階級と小市民および労働者階級とが新しい社会階層として定着した。また、ウィーン市自体が外に大きく広がったことも社会構成の変化をさらに促した。こうした社会情勢の中で、今まで自らの場を持たなかった庶民のため“郊外”に新しい娯楽と啓蒙の場を、という熱意ある人々の努力によって十九世紀末、幾つかの劇場が開設されたのであるが、その一つがライムント劇場であった。西駅の近く、ギュルテル(帯、ベルトの意)と呼ばれる大きな環状道路のすぐ内側に立つ。 劇場のあるウィーン6区で生まれ、民衆のために書き、また自らも演じた大戯曲作家フェルディナンド・ライムントの名を冠したこの劇場は、1893年11月28日、ライムントの道化芝居「縛られたファンタジー」によって開かれ、他の民衆劇場と同じように、オペレッタなどの娯楽ものからライムントやネストロイなどのウィーン民衆劇や啓蒙的な大衆劇、文学的水準の高い同時代の戯曲に至るまで幅広く上演した。また客演も多く行なわれた。 1899年7月には、俳優として活躍しながら既に演劇改革の試みを始めていた若いマックス・ラインハルトが仲間と共にここでイプセンの「幽霊」、ゲルハルト・ハウプトマンの「平和祭」、トルストイの「闇の力」、シュニッツラーの「別れの晩餐」などを客演して大成功を収めた。 アン・デア・ウィーン劇場の支配人でもあったカルツァクのもとでは、ここでもオペレッタに力が注がれた。1908年には始めて劇場独自の制作でヨハン・シュトラウスの「ジプシー男爵」が上演され、いわゆる「ウィンナ・オペレッタの白銀時代」にはロベルト・シュトルツの「幸せ娘」など幾つかのオペレッタも初演された。 しかしこの時期は、第一次世界大戦(1914〜18)およびそれに続くオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊、しかも四分の一に縮小、アルプスの小共和国として出発した敗戦国オーストリアは、戦後の経済混乱の中で返済不可能な巨額の賠償金を抱えていたという時代であり、ライムント劇場のように特に独自の伝統を持たない劇場にはことさら厳しい時代であった。 オーストリアは戦後1955年までの10年間、英米仏ソの連合国軍により分割答辞されることになるが、ウィーンは1945年4月13日の赤軍による解放からしばらくの間、ソ連軍の占領下にあった。劇場は運よく戦災を逃れたため、ソ連軍の要請によって4月25日にはもう「三人娘の館」を柿落としに再開された。この晩には6区の外出禁止令も解かれたと言う。 1948年にはルドルフ・マリクが支配人となり、ここでやっとライムント劇場にとっての「オペレッタの時代」がやって来る。マリクは30年に近い主宰期間、レハール、カールマン他、ツェラーの「小鳥売り」、ベナツキーの「白馬亭にて」、クライスラーの「シシー」、シューベルトのメロディーをたくさん織り込んだ「三人娘の館」などを精力的に上演、ツァラ・レアンダー、ヨハネス・ヘイスタース、パウル・ヘルビガー等の大スターたちを招いて、いかにもウィーンらしい個性を持ったオペレッタ劇場としてのキャラクターをしだいに作り上げていった。七十年代後半からはミュージカルも上演された。 1987年にはライムント劇場は、アン・デア・ウィーン劇場、ローナッハ劇場と共にウィーン劇場連盟下の一劇場となり、以後はミュージカルに力を入れている。「コーラス・ライン」や「レ・ミゼラブル」の後、現在は90年にアン・デア・ウィーン劇場から引き継いだ「オペラ座の怪人」がロングランを続けている。また重要な客演劇場としての性格は今も変わらない。(「維納倶楽部」1992年6/7月号) ♪フォルクステアーター VOLKSTHEATER 労働組合の劇場 十九世紀末、自由主義的富裕市民階級は、初めて自らのために建てた市民劇場(1872〜84)を火災で失い、代わりの劇場を求めていた。一方、民衆劇場改革者たちは質の高い演劇を安く見られる庶民のための劇場設立を目指していた。この両者の利害が一致して実現したのがフォルクステアーターである。劇場建設のため「ドイツ民衆劇場協会」か設立され、こうして1889年、現在地に現在とほぼ同様の姿で劇場が完成、アンツェングルーバーの「名誉についた汚点」を柿落としに、ドイッチェス・フォルクステアーター(ドイツ民衆劇場)は開館した。劇場はドイツ民衆劇場協会が所有し、支配人と賃貸契約を結ぶという形で経営されることになった。 ドイツ民衆劇場は、ブコヴィッツ、ヴァイセ、ヴァルナー(1889〜1918)の三代の間に古典ものの上演でしだいにブルク劇場に迫るようになり、それが富裕市民階級を惹きつけたので、しだいに上層階級の劇場の様相を呈した。民衆劇はしだいに後退し、それに代わってトップモードがたっぷり見られるサロン劇が上演されるようになった。 第一大戦後支配人となったベルナウ(1918〜24)は、現代戯曲の発見に才を発揮し、表現主義的な演出のため回り舞台を採用、ハウプトマンの「そしてピッパは踊る」などを上演した。またショー、イプセン、ストリンドベリをレパートリーに入れようと努力した。劇場の経営難と社会的な経済危機の中で、ライムント劇場との合併を主張するが、オーストリア劇場連盟から拒否されて24年引退、ベールに席を譲る。 ベール(1924〜32)は35万シリングもあった負債をわずか3年でゼロにして世間をあっと言わせた。観客層を広げるために劇場愛好会を作り、21年からライムント劇場の支配人でもあったので、24年には両劇場の合併も実現した。ベールは引き続き現代戯曲に特に力を注いだ。民衆劇は実際もう観客に受けなくなってもいた。ショーの「聖ジョーン」、ブルックナーの「英国王女エリザベス」は特に高い評判を得た。その他ワイルドやモルナールの質の高い喜劇、シュニッツラー作品の初演のほか、興行収入を狙った文学的には余り価値のない喜劇もかなり上演したが、こちらの方も質の高い演技で成功した。スターとの長期契約も結んだ。ところがベルリンの真似ばかりしていると言う悪評を立てられ、その攻撃がしだいに強くなったため、32年には引退を声明、マックス・ラインハルトのドイツ劇場を主宰すべくベルリンへと去る。しかし情勢の変化の中で38年には結局ウィーンで自殺に追いやられる。 ベールに推薦されて支配人となったヤーン(1932〜38)は、中小企業の倒産や失業者の増大、さらに映画という強敵の進出で非常に苦しい劇場の危機を救おうと、かなりの私財を投資した。映画と競争するために映画的な演劇を上演すると言う作戦を取り、質を一段落としてメランコリーでかつ華やかな作品をプログラムに載せた。いわく「ブロードウェイの魔法」「愛はいっぱいー金はなし」「恋愛結婚」。しかし劇場はそのおかげで生き延びられたのであった。1938年、オーストリアがドイツに併合されると、ドイツ民衆劇場はナチスの文化組織「歓喜力行団」に組み入れられ、ライムント劇場、フォルクスオーパーと共に三つの「民族劇場」の一つとしてその文化政策の中心に据えられた。 この時期に支配人を務めたイルツ(1938〜44)は、忠実すぎるほど忠実に第三帝国路線を守りながら、上演を許された古典作品、喜劇などの演出や衣装、舞台装置を通して静かなプロテストを試みた。1942/43のシーズンには、四十七士の討ち入りを男の中の男たちへの賛歌として描いた「サムライ」が上演され、日本との友愛が強調された。 戦後、ドイッチェス・フォルクステアーターはただのフォルクステアーターとなり、48年にはオーストリア労働組合連合が買い取った。1952年に支配人になったエップは理想の人であった。劇場アンサンブルのみの公演を方針とし、劇場とは人間の存在に関わる社会問題との出会いの場であるとして、デュレンマットやマックス・フリッシュを取り入れ、サルトルの「汚れた手」を上演して「最も勇気ある劇場」と言われた。俳優の多くが成長するとブルク劇場に移ってしまうので、優秀な俳優の確保に悩みながらも、68年に突然の死を迎えるまで、実験的で現代的な劇場作りに努力した。 次のマンカー(1969〜79)は民衆に質の高い演劇を提供するという初心にかえって、プログラムの代わりに表には配役、裏には作品および作者について短くまとめた「劇場紙」を配り、作品も古典から現代ものまで広く上演したが、帰って焦点がボケてしまい成功しなかった。大勢としては現代物の上演に力を入れるという方向ができてきたわけだが、まず二千人を収容する大劇場は現代戯曲の上演には大き過ぎるという事実があって上演作品の見直しを迫られており、模索が続いている。現代戯曲上演用には81年、コンツェルトハウス内に小劇場フォルクステアーター・スタジオが開かれ、また優れた俳優確保のためには84年、付属演劇学校が設立された。 1988年に支配人となったヴェルナーは「たくましく、感覚的でかつオーストリア的な劇場」を目指しているが、歴代の支配人たちが悩み続けてきた「広い層を対象」「質の高い演劇を提供」というともすれば相反しがちな二つの課題を、彼女がどこまで統合していくかがこれからの見ものである。(「維納倶楽部」1992年10/11月号) こんな新しい劇場もあります。 ♪オデオン劇場 ODEON―THEATER 新しい演劇、無言の旅 帝国時代、穀物取引所だった大きなホール。左右の壁に並行して巨大な円柱が何本もそびえる。前方の床が舞台である。客席はそこから後方に向かって階段状に上がっていく。幕もない舞台には、壁と様々な大きさの幾つかのドアが見えるだけである。 上演開始。左手から両手に持ちきれないほどの荷物を抱えた女が一人、あたりの様子をうかがいながら忍び足で現れる。あのドア、このドアと覗いて見るが、どこも自分が入る場所とは思われない。そのうち男が一人登場し、せかせかとドアを開けては驚いてまたドアを閉める。二人はすれ違っても全く相手が存在しないかのように動きを続ける。人数はしだいに増え、互いへの無関心と覗き見趣味的な好奇心が交錯した動きが、異様な集団行為となって続く。言葉は一切使われないが、パントマイムではない。舞台装置、音、音楽、衣装、俳優の表情・動きを深めた全体で真実を表現しようとするノン・バーバル・シアターである。 セラピオン劇団主宰者エルヴィン・ピプリッツ。もと繊維労働者。演劇に関心を持ち、働きながら1962年より初のアヴァンギャルド劇団「コメディアンテン」に参加、メーキャップ、舞台装置、振り付けに、あるいは俳優として、様々な形で関わりながら、自らにとっての演劇のイメージを発展させていく。 73年.ウルリケ・カウフマンとの出会い。互いの中に演劇と人生のパートナーを見出す。「言葉として明らかな形を与えられた戯曲には解釈におのずから限度がある。人間の想像力が羽ばたける空間をもっと広げたい、イメージの中にある真実を表現したい!」 こうして全く新しい演劇形態が誕生した。文学は重要な要素ではあるが、あくまでも背景に留まる。劇団の名は、当時ピプリッツ氏が表現したかった世界に最も近かった幻想・怪奇のロマン主義作家、E.T.A.ホフマンの文学サークル「セラピオンの兄弟」から取った。 こうして始められた新しい演劇運動は、移動劇団としての活動の後、ワレンシュタイン広場の映画館あとの建物にようやく根拠地を得た。1978年の柿落とし以来、ほぼ毎年一作の割合で手作りの創作を発表している。活動の初期には、E.T.A.ホフマンの世界、現実には存在の場を与えられない悪夢や狂気、幻想の中に現れた人間の真実の表現に力が注がれた。仮面が多く使われ、誇張された衣装が特に大きな意味を持った。作品はそこからしだいにイマジネーションそのものの持つ力の表現へと発展し、水の精ウンディーヌからイメージを膨らませた作品「アニマ」は、ウィーン芸術週間の一環として実際にドナウ河畔に作られた舞台で演じられ、大好評を得た。 現劇場建物オデオンに移った88年からは現実そのものの中に潜む真実を探り、表現する方向へと変貌してきた。作品はピプリッツ氏が全体の構想を立て、舞台稽古をしながらアンサンブルのメンバー全体で検討、討論しつつ具体的な細部の決定をしていく。衣装もその中で決定される。舞台装置と衣装はウルリケさんが担当。 色染め、模様描き、刺繍から縫製まで、凝った衣装は全て女性メンバーによる手作りで、シーツや古いカーテンはこうして長い時間をかけ、豪華でファンタスティックな衣装に変貌していく。舞台装置の制作は男性メンバーである。全てが手作りなので創作は一年一作が限度。しかも上演は観客の関心から見て二ヶ月間が限度だと言う。それ以外の時期は共通した信条を持つ劇団の公演の場として提供している。日本人前衛ダンサー、カルロッタ・池田とも親しく、この秋にも公演を予定している。 財政困難の荒波にもまれながらも頑固に自らの方向を守りつづけてきたセラピオン劇団は、今国の助成金を得られるまでに認められるようになった。 「今後はダンスや音楽に力を入れて行きたい」と抱負を語るピプリッツ氏に、「具体的には?」と尋ねると、「まあ僕たちを見ていて下さい」と言いながら夢を追いつづけるその目を細め、いたずらっぽく微笑んだ。(「維納倶楽部」1991年10/11月号)
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